比内鶏は、江戸時代に地鶏と軍鶏の交配・固定化により作り出された品種です。1932年の記述によると、〔三枚冠でシャモ型であるが、シャモのように直立せず、他の地鶏と異なり体躯が非常に大きく、雄の体重約3.75kg、雌の体重は約2.6kg~3kgで、容姿は薩摩鶏に酷似している〕とあります *2。小穴彪氏は秋田県大館町(現、大館市)の比内鶏保存会を1937年から1942年にかけて3回の現地調査を行い、比内鶏の特徴について〔雄体重3.75kg、雌体重3kg、背線はほとんど水平に近く、尾角は地鶏のように少々高く地鶏型〕と記述しています *3。
小穴彪氏らの調査をふまえ、比内鶏は1942年に天然記念物に指定されました。ところが1980年代には「本種は肉質の優秀なるを以って鳴る立派な実用鶏であるから、この方面に重点を置く事が肝要で、鑑賞専門の愛玩鶏と混同してはならぬ」、さらに「現在、原産地では体重雄3kg位で胴の細めのものが作られている」と指摘と懸念が述べられるに至ります *4。現在、秋田県において天然記念物に指定された当時の特徴を保持している比内鶏の数は非常に少なくなりつつあります。
比内鶏は2系統が現存しています。佐藤広一らにより昭和30年代から蒐集、保存されてきたものは黎明舎系統とよばれ、羽色、体型、体重など、天然記念物指定された当時の特徴を保持した貴重な鶏です。
もう一方は山田定治氏が各地から蒐集したものに由来し、小型で骨細という特徴をもっています。現在は秋田三鶏保存会が伝えています。
昭和30年代より外国から優れた形質をもつ鶏種が導入されました。同時に養鶏技術も輸入され、肉用養鶏、採卵養鶏ともに産業として発展をとげます。今も物価の優等生として欠かせない食材である両者は、ひとえに養鶏家たちの努力と養鶏技術の追求の賜物です。
やがて付加価値化・地域活性化のなか、地鶏名を冠した多くの銘柄鶏が市場に見受けられるようになります。しかし、消費者の誤解や不信が多く、その解消のため定義の明確化と表示の適正化が求められました。このような経緯から、1999年に地鶏肉の日本農林規格(以下、特定JAS地鶏)が施行されます。これは1)生産方法の基準、2)生産工程の管理記録、3)認証および表示についての基準などから構成されています。
ところで地鶏とは、特定JAS法で定められた品種・飼育方法で生産されたものと、一般に思われています。しかし特定JAS法が定義する在来鶏38鶏種のうち伊勢地鶏・岐阜地鶏・土佐地鶏はいずれも一般名称で、文化財保護法による天然記念物指定名称(=法定名称、指定は1941年)は「地鶏」です。
鶏品種名としての「地鶏」と、明治維新以前に作出された在来鶏を指す「地鶏」、さらには特定JASにいう「地鶏」の三様が併用される現状は誤解や混同を招きやすくあります。いっそう語義に注意する必要があるでしょう。
鶏は今から約2000年以上前、中国、朝鮮半島あるいは南西諸島などを経てわが国に渡来したといいます。渡来当時の鶏は、セキショクヤケイに類似する原始的な体型・羽色を備えたいわゆる古代鶏であったといわれています。飼養目的は愛玩・報晨・闘鶏・祭祀および卵肉食用などであったと考えられます。
その後平安期には遣唐使の派遣などにより小国鶏が、江戸時代になると大軍鶏、大唐丸、チャボ、烏骨鶏、コーチンなどがアジア諸国より渡来します。これら外来種に対し、古くからわが国で飼われていた古代鶏や小国鶏あるいはこれらの交雑種などの在来鶏を地鶏と呼ぶようになりました。明治維新後、投機を目的に多くの外来鶏種が輸入され、以前から飼われていた古代鶏や小国鶏、大唐丸、軍鶏および江戸時代に作出された多くの日本鶏などを一般に地鶏と総称するように至ります。1891年(明治24年)に日本家禽協会は「地鶏をわが国における最も古い鶏種の品種名」とすることを定めています。
わが国には約40種の日本鶏が現存していますが、その多くが江戸時代の終り頃までに作出されています。特に「地鶏」、「小国」、「大軍鶏」の三鶏系が、多くの日本鶏作出の礎となりました *1。